35.Why are your eyes closed?

 

 

 十二のとき、父が死んだ。交通事故だった。
 相手は大型トラックを飲酒運転していた初老の男。
 その日はたまたま『今日は私が運転しよう』とベンツに乗り込んだ父がいて、その日はたまたま助手席に妹が座りたがった。
 その日は『たまたま』父の魔道具の調子が悪く、魔術での事故の回避は間に合わなかった。
 ……よく晴れた日であったことを今も憶えている。
 空に昇る黒煙も。泣き叫ぶ母の声も。物言わぬ躯の重さも。未だにすべて憶えている。

「どうしたの、テオ」

 耳に纏わりつくような甘い声に窓の外から視線を剥がすと、目に飛び込んでくるのは毒の肌。
 七年間私という人間を蝕み続けた母という女は、真っ赤なルージュを引いた唇で笑っている。「…良い天気です。たまには外に出られてはいかがですか」その毒の肌に自分の唇を落とす。触れた部分から腐って爛れて感覚がなくなっていくのを感じる。
 母をやめた女の手が私に触れる、その部分から、肌に蛆虫が這うような不快感が付き纏う。
 喉をせりあがってくる胃液と吐き気を飲み下すことにはもう慣れた。
 母は外の世界になど興味はない。そんなことはわかっている。
 この人にとっての世界だった父が死に、秀才だった妹がそうではなくなり。計算高く父に取り入り、出来のいい子供を育て上げ、賢い女らしく一生遊んで暮らすはずだった母の計画は失われた。
 労働。努力。愛想笑い。世界に馴染むため誰もが勤しむモノを毛嫌いするこの人は父に代わりクラーク家を存続させようとしたが、その方法は、気が狂っている、と判断するにふさわしいモノだった。

「外に興味なんてないわ。知ってるでしょう」

 赤いマニキュアが光る指が私の衣服を落としていくのを見るともなしに眺める。「楽をしたいのよ。気持ちがいいことをしたいの。それだけでいいの。そのための人生で、そのためのウォッチャーで、そのためのあの子だわ」今日も書机に釘付けなのだろう妹、グレースを思い、束の間目を閉じる。父に代わり、母に代わり、動けない私に代わりクラーク家を支える実質的な柱。いや。人柱。
 かつては母であった人は、今は毒でしかない女は私を見つめて言うのだ。「美しく育ったわね、テオ。嬉しいわ」と。その手で私を蝕みながら告げるのだ。「愛しているわ」と。
 少しも動かない感情で私もですと吐き出し、母の手が招くまま腐ったように甘ったるく香るベッドに身を沈める、罪と罰の時間が始まる。

 

 

 

 

 空っぽの胃から吐き出すものはなかったが、頭から熱湯を被って肌の不快感を熱で消しながら胃液を吐いた。
 そんなことを十五分も続けていると、コン、と控えめなノックの音。「兄上。そのあたりにしましょう」と妹の声が響く。「……そうだな」以前、熱湯の浴びすぎで痕の残る火傷をし、魔術で治癒することになったのは戒めとして記憶している。同じ失敗はしない。
 未だ不快感は残っていたが、白いバスローブに袖を通して顔に貼りつく金髪を払いのける。
 鏡に映るのは母曰く『美しい』モノで、私からすれば忌々しい、母似の中世的な顔をした男だった。

「ご報告があります」
「なんだ」
「大英博物館を視ている者から連絡がありました。空気の一部が変質した、と」

 妹が立つだろう扉の向こうへと視線を投げ、英国を代表する博物館を想起する。
 あの場所は歴史的にも魔術的にも価値のある代物が集まっているだけに不安定な空間で、それ故常時ウォッチャーの一人を監視につけている。「対処の必要があるのか」「まだそこまでは。ただ、そうなった場合の許可をいただいておこうかと思いまして」「そうか。任せよう」不安定故に小さな亀裂でも大きなヒビに発展しかねない場所だ。大英博物館にも魔術師は常駐しているはずだが、ウォッチャーを取り仕切る妹が必要だと判断したならば、そうすればいい。必要な責任は私が取る。
 母が用意させて以来私の衣服として統一されているポール・スミスのブランド服に身を包み、魔術で乾かした髪をぞんざいに縛りながら外に出ると、まだ妹がいた。私とよく似た金髪碧眼の少女はこちらを見上げるとなんとも言えない表情を浮かべてみせる。その目元にはクマが目立つ。

「そろそろ良いのではないですか。兄上」
「……なんのことだ」
「あなたの献身についてです」

 献身。聞こえのいい言葉だ。母の気が済むように愛でられることを献身、とは。
 母に口付けされて真っ赤なルージュがこびりついた右手の甲を左手でこする。もうとっくに洗い落としたあの色がまだ肌にこびりついているような気がしたのだ。

「出過ぎたことを申しますが、セオドア兄様は成人されました。クラーク家を導くのはあなたであって良いはずです。それに、」

 それに、私たちも疲れました。
 小さくそうこぼし俯いた妹の顔は金の髪の向こうに隠れて見えなかったが、それが本音だということは理解できた。

(………私もだ)

 七年間、こんな不毛なことを続けて、私も疲れた。まるで永久に続く螺旋階段を下っているような気分だ。
 行けども行けども終わりは見えず、足を進めるほどに周囲の暗さは増すが、引き返して上るには地上は遠すぎる。
 いつまでこんなことを続ける気なのかと自分に問うたことは何度もある。
 問いの答えは出ず、これまで築き上げた様々なものに手足を縛られ、母に縛られ、結局何もできずにこんな場所まできてしまった。
 クマの目立つ妹はスッと背筋を伸ばすとまっすぐな碧眼で私を見上げた。「私からは以上です。これが最期のご挨拶となります」よく見れば、妹の片目は微妙に焦点が合っていない。もう限界なのだ。「そうか。………ご苦労だった」これで最期となる妹を緩く抱き寄せる。
 令嬢らしく、最後まで礼を尽くした妹は、執事に連れられて暗い地下へと続くエレベーターの箱の中に入る。
 続く道が虚無と喪失であると知りながら、彼女は最後まで微笑みを絶やさなかった。……出来た妹だった。
 対して、午後に会った妹はといえば。「兄上殿!」と勢いよく屋敷の回廊を駆け抜けてくると、私の前で急停止して元気よく挙手をしてみせた。その目元にクマはない。

「お初にお目にかかります、グレース・クラークです!」
「……ああ。兄のセオドアだ。以降、よろしく頼む」

 私が手を差し出すと、妹はその手を両手で握ってぶんぶんと振り回した。
 今度の妹はやんちゃだと聞いていたが、確かにかなりやんちゃだ。もう少し令嬢らしくしてもらわなくては困る場面も出てくるだろう。もっとも、世話役につけているオリバーがそのように仕上げてくれるはずだが。
 妹がじっとこちらを見つめてくる。
 午前中に会った妹と何一つ変わらぬ顔。違うとすればその目元にクマがなく、疲れた顔をしていないこと。

(どうして、こうなった)

 父とともに死んだ妹は、私より頭の出来もよく、魔術の習得も得意で、よく新しい術を考案しては私を驚かせていた。
 才能に溢れた、輝かしい未来が待っていたはずの妹。
 ………その遺体が父ほど損傷していなかったことが災いした。
 母は黒焦げだった父のことは諦めたが、まだ原形を留めていた妹のことは諦めなかった。
 妹によく似た人形の命を作り上げるために魔術と科学を融合させ、コスパのいい『グレース・クラーク』を作り上げた。
 もともと相性の悪い魔術と科学だ。作り上げた妹似の人型の命は短く長持ちしなかったが、科学の力で、その分量産が可能だった。
 母はコスパのいい妹を作り続け、父が指揮していたウォッチャーの人員を大幅に削減、再編成し、そこに妹候補を当てはめた。
 まっさらな金髪碧眼の少女たちはウォッチャーとして活動し、妹たるグレース・クラークに『寿命』が訪れれば、少女たちの中から次の妹が選ばれる。
 そうやって七年間、クラーク家は彼女たちに実働のすべてを背負わせてきた。
 家から出ない母に代わり、母に縛られ満足に動けない私に代わり、妹がすべてを担った。それ故に消耗し、代替わりを重ね、妹から妹へとバトンが引き継がれ続け……今、何人目だ。

「君は、何人目だったかな」
「ちょうど二十人目です!」

 元気よく答える彼女にはその意味がわかっている。自分で二十人目の妹だと。それまでの妹は虚無と喪失の闇に消えていったのだと。いずれ自分もそうなるのだとわかっていながらにこにこと笑顔を浮かべている。それが君たちという存在だと、その命に呪詛として母が刻み込んだ。
 そこから逃げることはできない、逃げることなど許さない、お前たちはそのために生きてそのために死になさい。
 母の赤いルージュがこびりついたままのような気がして、右手の甲を左手でこする。何度も。
 呪われているというのなら、私もそうだ。父が死んで初めて母に望まれたその日から、ずっと、呪われている。

「……大英博物館には私が行こう。変質の程度をこの目で見てくるよ」
「え? でも、兄上殿はお忙しい身で……」
「君は、妹らしい所作をオリバーから学びなさい」

 妹は唇を尖らせて「はぁい」と渋々返事をすると、彼女の走りに今頃追いついたオリバーの「お嬢様」と呼ぶ声に観念したように身を翻す。
 軽やかに駆ける少女。短い、華のような命。
 その命に背を向け、控えていたウォッチャーの一人に車を用意するよう指示。メイドが用意したコートを羽織り、私は冬へと近づく肌寒さを感じる外の世界へと一歩目を踏み出した。

 

 


 

 

ウォッチャーの実働隊の正体、グレース・クラークを名乗る少女の兄セオドアの登場と、かなりぎゅうぎゅう詰め込んだお話になってます

ちらほら出てきたウォッチャーは皆フードを目深に被って性別も年齢もわからないような制服を着ているんですが、理由はコレでした

ということで、3章は彼らのお話にもなりそうです

 

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