19.人形と人間の境目

 

 

 帰ってきてしまった。ここに。
 暖炉の炎以外に明かりらしいものがないそこで、わたしは呆然としていた。呆然と、横たわって動かないノアを見つめていた。
 あまりに、すべてが突然すぎた。
 わたしが『わたし』を思い出したのも、わたしが『自分の使命』を思い出したのも、満月が引き金だった。窓の向こうに大きな丸い月を認めた瞬間、わたしは、古い映画を眺めるように、これまでの人生を思い出した。
 祖父は、おじい様は、最初からそういうふうにわたしに暗示をかけていたのだ。それまではすべてを忘れよ、と。
 すべてを思い出してしまったわたしは、おじい様に従うしかなかった。
 だって、わたしは『ドール』。おじい様の人形。

(わたしはドール。でも。わたしは。リリー……)

 倒れたまま動かないノアに手を伸ばそうとして、痛みで腕が引きつった。…シリルと戦うために、わたしは動脈を避けて自分の腕を切ったのだった。どおりで痛いはずだ。
 人よりも血の扱いには長けているから、もう止血はできている。けれど、切った傷はやっぱり痛いし、失った血はすぐには補充できない。食物を摂取して、それを効率よく血にするか、他人の血を自分の血にするかしないと…。
 わたしがノアに触れる前に、杖をついて揺り椅子から立ち上がったおじい様が、彼を蹴飛ばした。容赦なく頭だった。そのことにわたしの体は引きつる。
 彼は一般人だ。そんな扱い方をしていい人ではない。入りどころが悪ければ死んでしまうかもしれないのに。

「柔いな。魔術に耐性がない。気を失っておるわ」
「……彼を。どうしますか」
「そうさな。大事な人質だ。地下の牢屋で丁重にもてなしてやりなさい」

 はい、とこぼしてわたしは無理矢理腕を動かし、引きつる傷を無視してノアの腕を肩に回し、立ち上がった。

 

 

 

 

 それが、半日ほど前の話。
 目を覚ましたノアへと食事を運んだわたしは、スープとパンのトレイを床に置いた。
 何も不純物が入っていないことを伝えたくて、味も素っ気ない、こんなものしか用意できなかった。
 ……この鉄扉の向こうに彼がいる。
 本当ならこんな場所から一秒でも早く出してあげたい。この屋敷から逃げ出してほしい。
 だけど、わたしはこの鉄扉を開けることはできない。おじい様の命令だから。
 彼は人質。おじい様の目的、金色のドラゴンをここにおびき寄せるためのエサ。
 置いたトレイを扉の下部から奥へ押しやる。それで、中にいた彼が外に誰かが…わたしがいることに気がつく。

「リリー?」
「……………」

 返事は、しなかった。する資格がないと思った。
 でも、こんな状況でも、優しくわたしを呼ぶ声が嬉しくて。返事はできなかったけれど、牢屋の鉄扉の前で座り込んでしまう。
 膝を抱えて蹲ったわたしの世界は白黒ではなかった。ノアがわたしの色を取り戻してくれた。それなのにわたしは。

(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)

 こんな暗い世界にあなたを連れてきてしまった。他人を傷つけることに躊躇しないおじい様がいる場所にあなたを連れてきてしまった。
 この地下牢は最低だ。かつての拷問の跡が酷く、辺りは良くないモノで溢れている。
 呪いは、負の感情は連鎖し、ただひたすら罪深く在り続け、業のモノを呼び寄せる。
 彼のいる部屋はとくに酷い。壁には血が出るまで爪で引っかいたのだろう跡。夜は怨霊が叫び、床には呪いの欠片がそこかしこに落ちている。長く留まれば彼の体調にも影響が及ぶだろう。生者を怨めしく、羨ましく思う死者に引きずられて、闇の中へと落とされる。
 ……こんな場所に、あなたはいるべきではないのに。
 わたしのせいだ。
 すべてわたしのせいだ。
 わたしさえいなければ、ノアは今もあの平和な田舎町で喫茶店を営んでいた。コーヒーを淹れていた。こんな場所も、こんな世界も、知らずにすんだ…。

「リリー」
「……………」
「腕の怪我とか、大丈夫?」

 扉の前までやってきて、おそらくトレイを持ち上げたのだろう彼は、わたしを案じていた。牢の中で自分ではなくわたしの怪我を案じていた。わたしのことを考えていた。
 彼の優しさはまるで毒のようだ。
 優しくされる度に、それは毒のようにわたしを蝕む。
 おじい様の人形として、ただ無機質に、優しさなんて知らずに生きてきたのに。彼に当たり前のように優しくされて、その度に、わたしは彼の優しさの味を知り、求めてしまう。わたしを弱くする毒をもっと欲しいと思ってしまう。
 ぱく、とあえぐように呼吸して、ぎゅっと唇を結んで立ち上がる。
 暗く寒い地下牢。その通路の最奥に、真っ赤な姉が立っている。ただじっと、目と思われる空洞でわたしのことを見つめている。

 コレデイイノ?

 声が聞こえた気がして、幻聴に頭を振る。
 喋る、はずがない。ただの血の塊なのだから。わたしには、姉に意思を与えるような高等なことはできない。
 じっと、姉がこちらを見ている。ゆっくりとした歩調で歩いてくる。眼球の落ちくぼんだ、姉、だと思っているモノが。

 コレデイイノ?

 また。聞こえる。これでいいのか、と言っている。
 ……その声に答えるとするなら。

(よくないよ)

 自分の、状況も。ノアのことも。このままでいいわけがない。
 だけど、怖い。わたしはおじい様がとても怖い。人を物として見て切り捨てるあの人がとても怖い。
 あの人は姉の遺体から容赦なく血を抜いた。使える、と言って。姉は面影のないぺらぺらのミイラになった。それに猛反発し、わたしを血術の後継者にすると言った祖父と対立した父と母も、血を抜かれてミイラになって死んでしまった。
 祖父はわたしから大切なものを奪い続けた。
 何人かいた使用人も気付けばいなくなっていて、独りになってしまったわたしは、祖父への畏怖と恐怖から、わたしの人間性も、わたしの人生も、捧げるしかなかった。祖父に盲目的に従う生き方をするしかなかった。
 痛いのも怖いのも嫌だった。
 ミイラにされるのも嫌だった。
 祖父に従ってさえいれば、生きてはいられる。わたしはそうやって逃げながら生きることを選んだ。
 わたしの前まで歩いてきた姉が、眼球のない顔を近づけてくる。
 これは、姉の血。父と母の血。血術を受け継いできたこの家系の血。呪いの、結晶。
 どうしてわたしの家族はこうなったのか? それを思い出すと今でも手が震える。
 ひしゃげた姉から当たり前のように赤を吸い上げる祖父。それを見て悲鳴を上げる父と母。ぺらぺらになった姉だったモノ。
 呆然とするわたしを指し後継者と決める祖父。反対する父と母。
 姉を亡くしたことをまだ受け入れられないわたしがようやくご飯を食べようという気になった三日目の朝、父と母の身体は首から上をなくして暖炉の前に転がっていて、祖父は、そんな二人から当たり前のように赤い色を吸い上げていた。
 真っ赤な瞳で三日月のように口を細くして嗤う祖父。
 その双眸がわたしを捉えたとき、わたしは、死にたくない、と思った。姉のように、父母のようになりたくないと思った。あんなのは嫌だと思った。だから、祖父には逆らわずに生きようと誓った…。

 コレデ、イイノ?

 鉄扉の向こうには、捕らわれの身となったノア。
 そして、色を取り戻し、クリアになったわたしの視界には、真っ赤な姉。
 もし、姉が彼のことを言っているのだとしたら。もし、姉が、『リリー』というわたしを自覚しつつある、『ドール』を気取るわたしのことを言っているのだとしたら。

(よくない。よくない。よくないよ)

 わたしは優しさを知ってしまった。世界の色を取り戻してしまった。もう優しさを知る前の、世界をモノクロ映画として遠い目で見ていたわたしには戻れない………。
 わたしはわたしを失くしたくないし、ノアのことも失くしたくない。
 わたしは、決断しなくてはいけない。何を選ぶのか。何を捨てるのか。何を差し出すのか。
 大切な人を閉じ込めている鉄扉の前で赤い姉を前にして、わたしは考える。何を捨てるのか。何を差し出すのか。わたしは。わたしは………。

 

 


 

 

19話め! ちょっとお久しぶりとなりました💦

『ドール』だった彼女は、『リリー』として生きるのか。それとも『ドール』に戻るのか?

 

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