18.怨風

 

 

 ノアが蹲ったのが見えたが、怪我をしているわけじゃないのは解っていたからそのまま視界から弾き出した。
 異様にデカく映る月をバックに赤い翼を広げているのは、昼間まで普通の様子だったリリー。
 今は赤い魔の瞳で血を媒介とするんだろう魔術を展開し、鳥の形をしているくせに人面顔の何かを生み出したところだ。
 金の竜が『血の臭いがする』と言っていた理由はこれだ。
 リリーはあまり見聞きしない血を媒介とした魔術を用いる魔術師。
 その狙いは金の竜。
 少し前のオレと同じで、あのクソジジイの命令を遂行しようと躍起になっている。

「お前、ノアを悲しませたいのか」

 だが、オレよりも若いリリーは非情にはなりきれていなかった。割り切れてもいなかった。言葉一つで簡単に揺らぎ、苦しそうな顔で空中にいるオレらを見上げているノアをチラリと確認し、赤い瞳が歪む。
 それを振り切ろうとするように赤い鳥が飛ぶが、覇気がない。形だけの魔術だ。さっきからどれもこれもそうだ。こちらを始末しようという意志が感じられない。
 やる気のない鳥を、こちらもやる気のないナイフの一撃で抹消する。

「もうやめようぜ。…お前を傷つけると、ノアが絶対にうるせぇし」

 満月の力で輝くナイフを放り投げてはキャッチする。
 満月で力が上がるのはリリーに限った話じゃない。オレのナイフも月光で力を増している。やる気のない使い魔なら一撃だ。「クソじじいの件ならなんとかしてやる」「…………」「好きで従ってるわけじゃないだろ」オレがそうだったように。そこさえなんとかしてやればリリーは戻ってくるだろう。そして、ノアはそれを望む。受け入れる。アイツは三人での生活を気に入っていた。
 リリーがその気になって、ノアがそう願えば、オレはそのとおりに動くだけだ。
 金銭面もカバーしてやるし、喫茶店で雑務をする仕事もくれてやる。
 だから、戻ってこいと、そう言おうと口を開いて、
 そのとき、ざわり、と寒い風が吹いた。背筋が冷たくなる風が。

(この風。この嫌な気配)

 あのクソジジイの。
 このタイミングでリリーに加勢か? いや、そんなガラじゃないだろう。そうじゃない。なら狙いは。その狙いは……。
 体が軋むのも構わず翻り、地面に膝をついたままのノアのもとまで飛ぶが、あと数センチが届かず、ノアの体が風にかっさらわれた。大きく目を見開くのが精一杯のノアは悲鳴一つ上げる暇なく黒い風にぐるぐる巻きにされ、そのまま夜の闇に消えようとする。
 追うオレの前に赤い翼が割り込みナイフを突き出してくる。首を狙った軌道を無視するわけにもいかず、ナイフでナイフを受け止め、無表情のリリーと正面からぶつかり合う。

「退けリリィ!」
「できません」

 リリーは頑なだった。ノアを追おうとするオレの邪魔だけはしてきた。
 追跡のために放った光る鳥はことごとく潰されたし、飛ぶ力を奪うように翼を集中して狙われた。
 リリーの相手をしている間に、ノアをさらった黒い風は跡形もなくなっている。
 目視では追えない。何かしら、魔術的な手段でないと。だが、リリーのナイフと魔術を捌くのに手いっぱいで、そのための時間も集中力もない。
 短時間でこれだけ力を行使したのは初めてで、リリーの相手をしながらなんとかできないかと左目に力を入れたが、集中力と、想像力が、切れてきた。
 翼が穴だらけになってちぎれたとき、空を飛べる、という自己暗示も途切れた。墜落は免れたが、無様に地面を転がる。
 それは魔力切れを起こしたリリーも同じで、血を吸ったコートは赤く汚れたただのコートに戻っていた。
 オレとの小競り合いで力を使いすぎたのか、出血のしすぎで意識が朦朧としているのか、起き上がろうとする動きは鈍い。

(ノアを追わねぇと……)

 膝に手をついて立ち上がるが、左目がかすんでいた。…力の使い過ぎか。
 月が異様に丸く、そこだけが光っている黒い空には星の光も薄く、ノアの姿は欠片もない。
 連れ去ったのは、あのクソジジイだ。最初から、リリーの応戦でオレという邪魔者の気が逸れる瞬間を狙っていた。
 ノアの誘拐、その目的が金のドラゴンのままなら……人質。か。
 この場で金のドラゴンと対峙したとして、前と同じ結果が関の山。ならば、手法を変える。自分が有利に立てる地にドラゴンをおびき出す。ノアはそのための餌。
 やることが汚いよな。魔術師らしいといえばそのとおりだが。
 どうにか身を起こしたリリーの周囲をヘドロのような闇が包んだ。『ようやった。褒めてやろう、ドール』氷のように冷たいあのクソジジイの声だ。
 ドール、と言われたリリーは無表情に「はい。おじい様」と機械的な言葉を返した。
 おじい様。コイツ、あのクソジジイの孫か? さっきから頑なに譲らなかったのはそのせいか。他人の命令じゃない。親族の、祖父の命令。だから従っていた。そう考えればこれまでの行動に説明はつく。
 リリーは抵抗することなくヘドロのような闇に呑まれていき………最後にどこか泣きそうに表情を歪ませて、言葉にはせず、ごめんなさい、と謝って、夜の闇に消えた。

 

 

 

 

 重い体を引きずるようにして喫茶店に戻り、ベッドで寝こけたままのドラゴンを叩き起こしてノアが連れ去れたこととその経緯を説明すると、金の竜の寝ぼけ眼に鋭い光が戻った。『そうですか。ノアが…』ドラゴンはそれだけ言うと、コートもジャージもボロボロにしているオレを見上げた。

『少し、休みなさい』
「そんな暇ないだろ。すぐにノアを追う」
『ノアの居場所はわたしが特定します。あなたは少し、休みなさい。
 力の行使にまだ体がついていけていません。このまま動き続けても、倒れるだけです』

 いざノアを救出だってときにぶっ倒れてちゃ意味がない。
 そんなことはわかってる。わかってるけどさ。「くそ…ッ」自分の不甲斐なさにとにかく腹が立って仕方がない。
 あと数センチだった。あともう少しで手が届いたのに。
 悲鳴を上げる暇もなく黒い風に呑み込まれて、こっちの世界を知らないノアがどれだけ恐怖を感じたか。今だって、一体どんな扱いを受けているか。
 ノアを守るために竜に力をもらってナイトになった。それがこのザマか。
 破れて汚れたコートを投げ捨ててソファベッドに転がる。
 自分に腹が立って仕方ないが、寝ないとならない。普段しない運動をしたあとのように体は疲労感に浸かっている。ノアの居場所のことはドラゴンに任せて、オレはせめて、自分を万全な状態にもっていかなくては。

 

 泥のような眠りから覚めると、昼も過ぎていた。
 それまで一度も目を覚ますことなく寝ていた辺り、慣れない行使に、体はよほど疲れていたらしい。
 何か腹に入れた方がいいだろう。いざ行動だってときにエネルギー不足はごめんだ。
 階段を下り、カフェ空間を横切ってキッチンに入ると、金髪碧眼で白いワンピース姿の女がじっとコーヒー豆の入った袋を見つめていた。…ノアがわざわざ買い出しに行って買ってきた豆だ。いたく気に入ってた。

(いるべき人間がいない家ってのは、変な感じだな。静かすぎる)

 ………この感覚には憶えがある。
 両親を埋葬して帰ってきた家の、誰もいないあの感じに似ている。
 いくら待っても待ち人は現れず、家賃の払えないアパートの部屋を引き払ったあのときの気持ちを今も憶えている。泣くこともできず、怒ることもできず、ただ悔しくて拳を握っていた。

「わかったか。ノアの居場所」

 寝起きで掠れた声をかけながら冷蔵庫の扉を開ける。
 眠った分、頭はいくらか冷静だ。自分が力不足だったことは腹立たしいままだが、それはこれから絶対に挽回する。
 ヨーグルトと残り物のりんごの蜂蜜煮をごっちゃ混ぜにして食い始めたオレに、女は浅く頷いた。

「本拠地、だと思われます。わたしを呪ったあの気配で満ちている場所です」
「…つまり、罠なりなんなり張り巡らせてこっちを待ち構えてる、と」
「はい」

 たとえ罠だとわかっていても、ノアという人質がいる以上、行くより他に道はない。
 そこにはおそらくリリーもいるだろう。
 リリーが直接ノアに手を出したわけではないが、クソジジイの命令に盲目的に従い、ノア誘拐の手助けをしたのは事実。
 ノアのナイトとして。オレは断固たる意志でリリーを断罪しなくてはならない。

(何度だって汚した手だ。今さら女一人くらいどうってことはない)

 今はスプーンを握っているこの手は、ノアのためにとアップルパイを作り、交代で食事当番をし、ナイフを握り、そして今度は命を刈り取る。
 リリーって人間の首を落としたとき。あるいは、その心臓を貫いたとき。ノアって人間はどんな顔をし、どんな目でオレを見るだろうか。…自分の命より利他的に他者を優先し、泣くのだろうか。自分の命が助かったことへではなく、リリーって女が死んだことに涙するのだろうか。

 ごめんなさい

 最後にそう唇を動かして泣きそうな顔で闇に消えたリリーが浮かぶ。
 その泣いた顔に刃を振り下ろす。その歪んだ顔に、首に手をかけ、絞め上げる。
 それで、ノアがオレを殴ってでも止めに入るだろうところまでは簡単に想像できた。たとえリリーに背中から刺されたとしてもアイツはそうするだろう。
 ああホント、なんて利他的な馬鹿野郎なんだか。
 自分でコーヒーを淹れるのは面倒すぎたから、熱い湯を沸かせばすむ紅茶に角砂糖を二つ落としてかき混ぜ、一気飲みした。
 シャワーを浴びて砂埃と乾いて固まった血を落とし、トップマンのブランドで揃えた無地のキャラメルニット、チェック柄のスキニーパンツに同じ柄のチェスターコートを羽織る。
 オレの格好を見て、夏のワンピースとサンダル姿の竜は考えるそぶりを見せた。「わたしは、これでは、変でしょうか」「…薄着すぎるな。せめてブーツとコート羽織れ」タブレットで適当なものを表示させると、次の瞬間にはサンダルは消えてブーツになり、白いワンピースの上にコートを着ている。…便利なことで。

 罠だとわかっていても、オレ達はノアが捕らわれている場所に殴り込みをかける。

 

 


 

 

18話め!

リリーの祖父、そして金の竜を狙う老人の狙いは『ノアの誘拐』でした
一度はこの地で敗北している彼は、自分に地の利がある場所に竜をおびき出すために一般人であるノアの利用を考え、リリーを送り込んできたのです
その目論見は見事成功してしまいます

さあ、ノアを助けに行かないと!

 

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