4.ロンドンの街で①
僕は久方ぶりに、二時間に一本しか列車が来ない、人のいない閑散とした駅に来ていた。
今日の天気はイギリスらしい曇り空。
駅から駅をさすらっているんだろう、アコースティックギターを鳴らしてしわがれた声で歌を口ずさんでいる老人がいたので、僕は自然とコートの内ポケットから財布を出していた。
街へ行けば携帯端末をタッチすればすむ金銭のやり取りも、田舎では通用しない。
喫茶店『ドラゴン』も現金でのやり取りが基本。だから僕はある程度現金も持ち合わせている。
老人…声からしておじいさんに歩み寄ると、広げたままのギターケースに財布にあった硬貨をいくつか入れた。
おじいさんがチラリとこちらを見上げ、へこ、と、たぶん頭を下げてお礼を示す。
…おじいさん、という存在が、どうにも祖父を思い起こさせて、僕はなんともいえない苦い気持ちで、列車が到着するまでの間、誰かもわからないおじいさんのギターとしわがれた声を聞いていた。
ロンドンにある家に戻るのは、半年ぶりくらいになるだろうか。
父とは顔を合わせれば邪険な空気になるし、母もそのことを気にしているようだったから、買い出しでロンドンへ行くことは何度もあったけど、家に顔を出すのは久しぶりだ。
父は仕事だろうか。そうであってほしい。
できれば家に誰もいない方がいい。
僕は必要なものを取りに来ただけで、長居するつもりもないのだから。
父や母や家族のことをぼんやりと思い出しながら、列車に揺られて、一時間と少し。
駅に降り立った瞬間、喧騒に揺れる空気に全身が包まれた。
制服に身を包んだ駅員。カートに載せて運ばれる観光客のスーツケース。地元民ではなく旅行者だとわかる、普段着からは遠い浮いた服装の人々が行き交う構内。
駅の外に出ると、2階建ての赤い大型バスがいくつも停まっていて、ツアー客の団体名を表示している。
ロンドンの駅前ではありふれた光景も、意識して見るのは久しぶりなことに感じられた。
景色を完全には阻害しないよう半透明の立体映像が、観光客を誘うように様々な情報を映している。色の溢れる、賑やかすぎる駅前の風景。
我が家は駅からそう離れていない。散歩には、ちょうどいい運動量だろう。
僕は随分と久しぶりに、喧騒に揺れる都市の空気を味わいながら、煉瓦の石畳の道を歩き始めた。
住宅街に入ってしまうとお店がなくなってしまうので、駅前の適当な店に入り、家への手土産として無難な紅茶缶を購入しておく。
久しぶりに家に帰るのは自分の都合で、もともとは自分の持ち物とはいえ、必要なものを持ち帰るのも自分の都合で…。久しぶりの実家帰りをそれだけですませてしまうのは、やっぱりあまりに、自分勝手な気がしたから。せめて手土産くらいは、なんて思ったのだ。
できれば誰もいないでほしい。そう願いながら住宅街に入り、立ち並ぶ白っぽい家々の中から自分の家を見つけて足を止める。
玄関の真上にあるテラスに人の姿はなく、窓は閉まっていて、道路の車寄せスペースにうちの車は停まっていなかった。…留守かもしれない。そうだったらいいな。
ポケットから鍵を取り出し、艶のある木製の扉の施錠を解除する。
伝統とか、見た目とか、そういうものにこだわるこの場所では、時代に置いていかれたような風景が間々ある。
うちもそのタイプで、今は電子でなんでもすませることができるのに、施錠は電子ロックでないし、玄関ポストには未だに紙の新聞紙が入っている。
(…新聞が、残ってる?)
父は毎朝新聞に目を通すことが日課だ。新聞が郵便受けに入れっぱなしなんておかしい。二人で旅行だろうか。
父は仕事人間だから、母を連れて旅行に…なんて姿はあまり想像できないけど。たまにはそういうこともあるかもしれない。
僕は新聞と手土産の紅茶の缶をリビングのテーブルに置いた。一応『留守みたいだったから、お土産を置いていくね。ノア』というメモ書きも添えておく。
自分の部屋に行ってみると、最後に来たときと同じままだった。換気と掃除だけは母がしていたのだろう、埃っぽさはない。
僕はさっそく目当てのものを探すため、クローゼットを開け放ち、持っていくものをベッドに放った。
よかった。学生時代以降クローゼットの肥やしになっていたウインドブレーカーの上下セットは使えそうだ。
クローゼットの上から引き出しまで探してみたけど、登山に使えるようなしっかりとした靴はやはり持っていなかった。これは帰りに買っていくしかないだろう。手袋も必要かな。念のために。
バックパックは、小さいものならある。これも学生時代に使っていたものだ。通学鞄だったからそれなりに年季が入っているけど、まだ使えるだろう。
自分の部屋を隅々まであさってみて、使えそうなものをベッドにまとめた。
(買うものは、靴と、手袋と、水筒かな)
端末で足りない装備品を検索し、このくらいなら妥当だろうと思う商品にチェックをつけて、在庫のあるお店をリストで呼び出す。登山用品を扱うお店が駅近くにあるようなので、そこへ行こう、と地図を呼び出しルートを表示させる。
あれこれ探して散らかった部屋はそれとなく片付けて、一息。ベッドに腰掛けて、僕はポケットから歪な形の瓶を取り出した。
なんとなく持ち出してきた瓶はまだ仄かに発光していて、弱い光を宿している。
そう。これは夢じゃない。
今までの出来事も、夢じゃない。
喫茶店『ドラゴン』に戻れば、あの金色の竜が僕を待っている。
二時間に一本しかない電車の時間もある。何事も素早く行動しよう。
僕は早々に荷物をまとめ、家を出た。
しっかり施錠を確認して、携帯端末の道案内を立体表示させたところで「ん?」と声。
…なんだかどこかで聞いたことのある声のような。あまり、歓迎できる声の持ち主ではないような。
嫌な予感いっぱいに顔をあげると、僕の前には首を捻ってこっちを見ている、学生時代によく見た顔がひとつ。
「あー、ノアじゃね? 久しぶり!」
僕の顔を数秒顰め面で眺めたのち破顔して片手を挙げた相手に、僕は内心、溜息を吐きたくなった。それを堪えて愛想笑いを浮かべ「やぁ、シリル。確かに久しぶり」と返す。
全体的に薄い色素、ブラウンの髪をした彼、シリル・キーツはいかにもイギリス人という風体をしている。まるで日本人のような僕からすれば、彼のありふれた外見はコンプレックスを感じるくらい羨ましいものだ。
学生時代、基本的に賑やかだった彼には何かと面倒なことを押しつけられたのは苦い記憶だ。
合コン、卒業旅行、飲み会…幹事をやらされたのは本当に嫌だったな。
じゃあ、と片手を挙げて逃げようとした僕の肩に腕を回して拘束してきた相手は、ニンマリとした笑みを浮かべていた。…すごく、嫌な予感がする。
「なんだよ、実家帰りじゃないのかよ。大荷物だし。どこ行くわけ?」
「ちょっと、荷物を取りに戻っただけなんだ。今日中にはロンドンを出る予定だよ」
「そうなのか。なんだ、突発的に飲み会でも開こうとか思いついたけど、じゃあやめだな」
携帯端末を取り出しかけていたシリルが唇を尖らせて端末をポケットに押し込んだので、ほ、と息を吐く。
危なかった。シリルの後先考えない行動は本当に侮れない。
ほっとしたのも束の間で、シリルは僕の荷物をジロジロと無遠慮に眺めた。「…何?」その居心地の悪さに首を竦めて訊ねると、彼は少し考える素振りを見せて、パチン、と指を鳴らす。
「よーし決めた。お前が帰るまでついていってみよ」
「はぁ?」
「今日ヒマなんだよ。予定が白紙になってさー」
まったく、僕の意思など関係なしに、彼は勝手に決めて、勝手に話を進めて、勝手に歩き出している。
シリルの学生の頃と何一つ変わらない自由奔放すぎる振る舞いに、僕は呆れ果てた。
ポケットの中にある歪な形の瓶を指先で転がして、まだ帰れないや、と胸中でぼやく。それがあの竜に届くことはないのだけど。
4話め! 気が向いたらと言っていたら一ヶ月あいてしまいました(;´Д`)
気が向いたらまた書きにきます!
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